その昔。ある僧が師匠に尋ねた。
―犬に仏性はあるでしょうか?
師匠は即答した。
―ある。
僧は重ねて尋ねた。
―それでは何故犬は畜生の姿でいるのですか?
師匠は答えた。
―仏性があると知りつつ悪業を為す業障故だ。
別の僧がもう一度同じことを尋いた。
―犬に仏性はあるでしょうか?
すると師匠は今度は、
―ない。
と即答した。そこでその僧が重ねて、
―何故ないのですか?
と問うと、
―仏性があることを知らぬからだ。無明の迷いの中にあるが故だ。
と師匠は答えた。
『鉄鼠の檻』京極夏彦より
チョコザップ最近行けてなかった村橋です。
介護の新規依頼の中で、通常とは異質の依頼があります。
通常、ご家族様、ご本人様、その関係者から介護保険を利用したい、どうしたらいいか分からないから相談したい。
といった依頼がほとんどです。
しかし、一定の割合で、
“発見されたので相談したい”
といった形の依頼があります。依頼元は、ほとんどが包括の中の見守り支援の方から頂きます。
こういった方は本当に難しく、考えさせられます。
そんな方の対応を最近しており、本日も訪問させていただきました。
家の中は靴を履いたまま入らせていただき、足の踏み場がない状態の環境。
しかし、本人はサービスを必要としない。
当然です、そもそもお願いしていないので。
電気もガスもほぼなしで、暑い時は水風呂に入って、寒い時は布団の中で過ごす。
食べたいものもなし。牛乳だけ飲みたい。
歩けなくなってきているが、這ってトイレまで行けているので「特に困っていない」とのこと。
外出はコロナがあるので出たくない。
痛くもないし、痒くもない。
様々な提案をするが、「いいです。今まで通り、まだここで生活できるので」
当然です。そもそもお願いしてないんですから。
この方の課題は…
無欲、ということ。
「欲」があって初めて課題や問題が生まれます。
美味しいモノがたべたいな。ラーメン食べたいな。とか、
異性に良く見られたいな、とか、いい恰好したいな、とか、認められたいな。とか。
そんないろんな欲や目的があってこそ、それに届かないことが、満たされないことが、上手にその気持ちと付き合えることで生きる活力になったりするんだと思います。
そこで、昔読んだ京極夏彦の『鉄鼠の檻』で出てきた禅宗の話が蘇りました。
こういった方たちは、無限に終わらない「欲」を捨てることができ、煩悩から解き放たれた状態なのかも。
悟りの状態、とも言えるのかもしれない、と考えたりしてしまいます。
無欲ということがそもそも課題と言えるのかな。
しかし…そんなわけないがないです。だって人は「煩悩具足ぼんのうぐそく」、人間は100%煩悩の塊、のはずなので…
わかりませんが…
とにかく今は牛乳を買ってきてほしい、という唯一の希望を一つの突破口にして、本当のニーズを引き出すことが大事なんでしょう。
答えはまだありませんが、決してこっちの価値観を押し付けにならないような支援を心掛けなきゃいけないです。
あんまりあれこれ言うと怒ってしまう、という情報もあるので…
色々学ばせていただく、という気持ちで接していきたいと思います。
最後にもう一度、『鉄鼠の檻』京極夏彦より
目的があってそれを意識しているうちは本物ではない。
病の人は健康を意識する。しかし本当の健康とは健康という概念が失われている状態が真の健康であって、
自己に対しても世界に対しても同じく自分とは何か世界とは何か問うているうちは本当ではない。
自分・世界というものが無くなって初めて自分があり世界があるという。
今日のブログは長くなったなー
もし最後までお付き合いくださった方いたら、感謝申し上げます。
ありがとうございました。